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カテゴリ:お知らせ( 25 )

多発性硬化症の患者さん対象のアンケート

現在、多発性硬化症で治療中の患者さんを対象に、簡単なアンケート調査を実施しています。
多発性硬化症の患者さんの声をまとめるいい機会だと思いますので、ぜひご協力ください。

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by multiplesclerosis | 2016-11-29 15:45 | お知らせ

抗AQP4抗体測定について

平成25年11月1日から,民間の検査会社でELISA法で保険点数1000点で行えるようになりました。

また、細胞を持用いた方法(Cell-based Assay法)での抗AQP4抗体検出においても、民間の検査会社で受け付けています。そちらも併せてご活用いただけますと幸いです。
なお抗AQP4抗体に関する研究については、引き続き御相談に対応させていただきます。よろしくお願いします。

結果を学会もしくは論文発表に用いる際は必ずご連絡ください。測定コストは当講座研究費を充てておりますので、結果を用いた研究(症例報告を含む)は原則共同研究としての扱いをお願いしています。

http://www.ms.med.tohoku.ac.jp/aqp4ab.html


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by multiplesclerosis | 2014-11-12 21:35 | お知らせ

Q&Aシステム不具合について

平成25年9月2日~10月24日まで、システムの障害により、Q&Aの申し込みが受け付けられない状態にあることがわかりました。
この間にQ&Aの登録申し込みをされた方で、まだIDの通知を受け取っていない方は、お手数ですが再度お申し込みいただきますようお願いいたします。

ご迷惑をおかけして済みませんでした。
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by multiplesclerosis | 2013-10-24 15:54 | お知らせ

震災の体験談

2011年3月11日の東日本大震災からすでに丸2年が過ぎました。復興への道のりはまだ長く険しいものがありますが、この未曾有の震災の経験を風化させてはならないことも事実です。
以下の文章は、全国パーキンソン病友の会宮城県支部の第2回ミニ集会(平成25年2月4日、仙台市福祉プラザにて開催)において、同じ神経難病であるMSの宮城県の患者団体(MS虹の会)の鈴木明美さんがご自身の震災の体験談をお話しになったものです。「全国パーキンソン病友の会宮城県支部だより」に掲載されていたものを、許可を得て転載させていただきました。
鈴木さんは、現在52歳で宮城県石巻市にお住まいです。MSのため両目の高度の視力障害があり、右手足の脱力もあります。

3.11東日本大震災体験談
多発性硬化症虹の会
副会長 鈴木明美

地震発生、そして津波第一波
地震なのか余震なのか、自分でもあまりよく覚えていないのです。二階に寝ていて…下に降りて来たのも全然わからない。はっと気が付いた時にはもう庭に出ていたんです。体は全然動かないし、薬も全部おいてきてしまったので、どうしようもなくて…。
うちは窓を開けてすぐ下が川なんです。ちょっと離れているんじゃなくて窓を開けて、すぐ釣りができるような場所だったんです。たまたま向かい側の娘さんが夜勤で、エンジンをかけていて、車で逃げようと思い荷物の積み方をしていた時、ふと庭を見たら私がうずくまっていたのが見えたので、連れて行ってもらえたんです。連れて行ってもらわなかったら―津波にもっていかれたな―と思います。
常に防災用具はリュックサックに入れて玄関に置いていたんですが、あのようなときには持っていけません。「あそこにある」のはわかるのですが、取りには戻れないし玄関の下駄箱も全部ひっくり返っていたので開かない状態だったんです。防災用具は何カ所かに入れて、いざというときにはどこから出ても持てるような状態にしておかないと、一カ所ではとても無理だということがわかりました。
みなさんもそうですけど、薬がないと体の動きや調子が悪くなりますよね。そんな時に限って、自分でもいつも持っているバッグをすぐに持てばよかったのですが、そういうのも全然気が回らないし、パジャマのまま逃げたので…。
津波が来る来る、と言われても今まで来なかったし、川の近くでもあまり危機感がなかったんです。多分自分の頭の中にも大丈夫だという思いがあったようで、向かいの娘さんに「とりあえず家に行こう」と言われても「大丈夫だから」と断ったようなんですね。でも無理矢理連れて行ってもらって良かったです。車で逃げようと思ったのですが、私の動きが鈍かったので車に着く前に、もう水が来てしまい、結局車も流されてしまいました。
私たちは胸まで水に浸かりながら、向かいの平屋のバイク屋さんに逃げたんです。中二階くらいの所に資材置き場があって、そこに細い橋が架かっていたので、そこに逃げようってことになりました。足が全然動かないし水圧もあったので「多分このまま流されるんだろうな」て漠然と頭の中で思ったのですが、たまたま足を掛けた所が何かの台で、グッッと娘さんに引き上げてもらいました。

第二波、第三波が来て
第一波では水に浸ってしまいましたが、津波は第二波、第三波と大きくなるのを知っていました。でも娘さんはまだ若かったので『引き波が終わった時に逃げよう」と言い出しました。私は「今行ったら私たち多分みんな終わりだから」と言って何とか留まったんです。二波も三波もすぐ足元に水が来るような状態でした。多分、見えている人にはきっと水が上がって来る様子が見えたのでしょうが、私は視覚障害なので水が上がって来ている状態は、バイク屋さんの修理工場の中の鉄骨とか、修理しているバイクとかが建物の鉄筋に当たる音で、グーッと上に上がってきているのがわかりました。真っ暗だし、自分が洗濯機の中にいるような感じがしました。
ああいうときは、とんでもないことを考えるようで、ポケットに携帯電話がたまたま入っていたので、全然繋がらないのに一生懸命「生きてます」みたいなことを打っていたようなんです。娘さんに「そういうことをしても無駄だし、とにかく何か着る物を探して来るから。平屋の家の天袋に使わない服があるから、それを持ってくる」と言われたのですが、このまま一人でおいて行かれたらずっとそこにいなきゃいけないような気がして、とにかくここに一緒にいてくれって言ったんです。
だんだん雪も降ってきて…。低体温で死ぬってことはこういうことなのかな。と思うくらい、ガタガタじゃなくてガクガクしてきました。体全体が誰かに揺さぶられているような感じで、その時濡れているからどうしようもありませんでした。
第三波くらいが引いたらとにかく避難所に行こう。ていうことになりましたが、ほんとに川の目の前なので水が引かないし、よその家の屋根とか瓦とか、もちろん車も三台も四台も重なっているところを逃げないといけませんでした。体が動かないのは、ほんとに大変なことで、ほんの10cmの段差も上がれなくて、結局は這って、体中、泥だらけになってしまいました。
そういうふうにしているうち、たまたまタクシー会社の社長さんが従業員を逃がそうと思い、マイクロバスに乗せたのに、水没して動けなくなってしまったらしいのです。でもだんだん水が引いたら上手い具合にエンジンがかかり、みんなで押したら動いたらしいんですね。その車が私たちの脇をスーツと通って行ったんです。もう終わりだなって思ったのですが、戻ってきてくれて、泥だらけのまま一番近くの避難所に乗せて行ってもらったんです。

避難所での生活の実態
避難所ももちろん停電だったので何も見えない状態でした。視覚障害の自分は、こう行ったら右手がトイレで左手が水道だ。て頭に入れるのですが、人が増える度に、通路が変わってくるので、みなさんに申し訳ないなと思いながら手を貸してもらいました。
トイレは水が流れないし、電気もダメなのでプールから水を汲んで流すのですが「ちゃんと流してください。トイレットペーパーは汚物入れに入れてください」と言われているのに、そういう時ってみんな自分のことしか考えないんですね。プールに水を取りに行かないで用を足したまま流さないので、ドンFンドンドン汚物が重なって…。私はよく見えないので「ここにまたいで」と言われても足を上げると汚物の上に…。一度汚れてしまったら中には入れないし、靴も脱がないといけないし。どっちみち汚れているからそれでもよかったのですが、こういう時って周りの人のことを考えないで自分本位になってしまうんだな。てなんかすごく悲しかったですね。自分が用を足したらバケツ-杯流せばいいのに、それをしないがために全部山になって。私はそれがよく見えなかったので、足の感覚で「みんな汚物そのままだな」とわかるだけだったのですが、見えていた人は耐えられなかったようです。やっぱりそういうときはお互い様なので、こういうふうにしましょうと言われたら、一人一人がそれを守らないといけないですよね。
薬も持っていなかったし、主人も会社で被災して帰って来れなかったので、福祉避難所に行ったほうがいいと思いましたが、そこにいる職員の人に「福祉避難所というのは体が動かない人、寝たきりの人、それからお年寄り、介助が必要な人が行くところで、おたくみたいに元気のいい人が行くところじゃありません」と言われたんです。「私、視覚障害なので行きたいんです」と言っても、目の病気じゃなくて神経なので、見た目にどこも悪くないように見えるし、今度は、動かないのは動きたくないから動かないんだ。と思われて「おばあさん達もこんなに一生懸命やってんのに、あんだは動けるような体なのに、なんで動かないの?」と言われ、本当に悲しくなってしまいました。

自宅に帰ってみて
三日目に主人が迎えに来たとき、そういう状態を主人も見てしまったので「壊れていても何でもいいから家に帰ろう」と言われ、雪の降る中、一時間かけて歩いて家に帰りました。でも家に帰ってみると水は引いていましたが、階段の上に魚がいたり、お風呂場の浴槽には泥が入っていて、その中にも魚が何匹か浮いていました。家の中にはよその知らない人の物がいっぱい入っていて、自分の家にあるべき物がなかったり…。どうしようと思いましたが、なんとか二週間くらいかけて二人で片付けました。全然情報がなくてわからなかったのですが「ボランティアさんが泥かきとか、がれき片付けとかしてくれたのに」という話を、自分たちが片付け終わってから聞きました。
目の前ががれき置き場だったので、がれきに家が潰されるんじゃないかと思うほど、ドンドンドンドン溜まっていきました。自分の家もそうですが、がれきといっても一つ一つ思い出がある物なのに、みなさんそこに、ただ捨てて行くのを眺めていました。お茶碗一つにしても私たちが一生懸命働いて買った物じゃないですか。それを泥だらけになったからといって、捨てるのはしのびないよね。と思いながら、人の家のがれきや、自分の家のがれきを、仮設住宅に入る10月まで見ていました。

患者会の大切さ
その間にも佐々木さんはじめ、みなさんにお世話になりました。患者会に入っていてすごくよかったと思いました。隣近所の人たちもみんな被災しているので、本当に自分たちのことだけで精一杯でしたし、年齢がいっている人は娘さんや息子さんの所に行ったりして、気が付いたらそこには二軒しかいない状態だったのです。改めて患者会の繋がりはすごく大きかったな、繋がっていてよかったなと思いました。そういう時は身に染みてわかりました。普段は患者会のことを、自分も大変だけど、みんなも病気だから。て感じで義務みたいに、患者会に入っているから行かないといけない、みんなと交流しないといけないと思っていたんです。でも、そうじゃなくて小っちゃな繋がりがすごく私には大きく広まって現在に至っているのです。すごく大事なことなんだなと改めて思いました。

仮設住宅で思うこと
まだ仮設住宅にいます。次の住家になる場所がなかなか決まらなくて四苦八苦しています。だいたい何年後かと目途がつけば頑張れますがまだまだ全然ないのです。昼間はいいのですが、夜主人が帰ってくるのがだいたい8時半位なので、暗くなって一人の時間が長くなると押し潰されそうになるのです。自分は病気で何もできない。主人は仕事でいっぱい遺体を運んだり、流れてくる人を助けたりして辛い思いをしているのに、それを言ったら病気の私が大変な思いをするだろうとそれを留めておいているんです。それを考えると何もできない私がこうしていていいのかなと思うし、ご近所のお世話になった人たちが亡くなったので、その人たちの代わりに私が逝けばよかったんじゃないか。て考えてしまうのです。それは月日が経つごとに大きくなり、今は、本当に先が見えなくなってしまいました。自分がここにいていいのだろうか?でもいいんだよね。て毎日その繰り返しです。調子のいい時は頑張れるから、うちの人の力にもなれるって思うのですが、調子が悪くて動けなくなったりすると、迷惑かけているんじゃないか?て思ったりします。物がなくなったり、家がなくなったりするのも辛いのですが、何で自分は動けないのにこうして生きているんだろう?てそっちのほうが大きくなって、それがなかなか自分の中で整理がつきません。
でもほかの健常者の方に聞いても「若い人が逝ってしまって年齢がいった自分たちがこうしていていいのか?て思うよ。だから病気の明美ちゃんだけじゃなく、私たちも思うことなんだよ」て。
でもそれを被災していない人はわかりませんよね。「復興住宅にも入れてもらって、代替地だって考えてもらって、ボランティアさんにはいろいろな物をもらっていいよね」て言う人がいるけど、違うんだよね。今はもう気持ちが…心が折れそうだよね。

これから
震災直後は「みんな被災してんだから頑張ろう!」ていう気持ちのほうが強かったのに、今は、だんだん家が建って出て行ったり、仕事の目途がついて新しいところに移ったりする人が結構いるので、引っ越しを見る度に自分たちは取り残されているような…。被災して、ここにいる人たちと周りから見る目が全然違うんだよね。テレビなんかでは「復興してきてますね。仕事もだんだんできるようになりましたね」ていうのを聞くと「私たちの気持ちはわかんないな、この人は」と思います。「でも頑張んなくちゃね、でもこれ以上何を頑張ったらいいのかね」と言いながらおばあちゃんたちは毎日ひなたぼっこをしています。そういう表には見えないことを、みんなにもわかってもらいたいな、と思い毎日生活しているので、今日は自分の思いがちょっとでも伝わればいいなと思いました。
ありがとうございました。


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by multiplesclerosis | 2013-03-25 14:39 | お知らせ

フィンゴリモド(イムセラ、ジレニア)の導入について

フィンゴリモド(イムセラ、ジレニア)の服用後の徐脈等による重篤な合併症を防ぐため、改訂された添付文書や、欧州医薬品庁の評価報告なども参考にして当院では以下のような対策をしております。当院でのフィンゴリモド導入時には原則2泊3日の入院が必要です。

1.投与前の12誘導心電図異常の確認を徹底しています。不整脈があれば投与しません。
2.原則、投与前日朝から入院し、前日から心拍モニターを装着し脈拍数を監視します。
3.投与後も心拍モニターを装着し、24時間脈拍数を監視します。
4.血圧を、投与後6時間までは2時間おきに、その後も3~6時間おきに翌朝まで測定します。
5.投与後6時間で12誘導心電図検査を施行します。
6.投与前2週間、投与前日、投与翌日、投与後2週間で血液検査を施行します。
7.抗不整脈薬を内服中の患者さんには投与しません。
8.高血圧、心筋梗塞、狭心症、糖尿病の既往・治療歴のある患者さんにも原則投与しません。
9.非典型的なMSには原則投与しません。

以上は当院での独自の対策であり、必ずしもすべての施設において導入されるものではありません。
尚、現時点ではインターフェロンβ投与に問題のある患者さん(副作用、中和抗体陽性、効果不十分など)に導入をお勧めしています。
 
添付文書改訂に関する田辺三菱からのプレスリリース
http://www.mt-pharma.co.jp/release/nr/2012/pdf/MTPC120321_IMU.pdf

欧州医薬品庁からの評価報告書(英文)
http://www.ema.europa.eu/docs/en_GB/document_library/Medicine_QA/2012/04/WC500125689.pdf


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by multiplesclerosis | 2012-04-29 18:40 | お知らせ

世界MSデー

5月25日(水)は世界MSデーです。日本多発性硬化症協会では、世界MSデーのイベントとして、同日東京の数寄屋橋付近でパンフレット配布を行うそうです。

平成23年度「World MS Day」の行事(日本多発性硬化症協会ウェブサイトより)

配布時間は10:00~17:00、ただし配布終了時をもって解散。
ご協賛いただいた製薬会社および一般企業の方々にご協力を要請したため、ボランティアの受付はしていない、とのことです。
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by multiplesclerosis | 2011-05-23 10:47 | お知らせ

震災の仙台から(14):感謝

f0183250_15565935.jpg 3月11日の東日本大震災の発生以後、インターネット、テレビ、新聞その他を通じてこの地域の被災状況が詳しく報道され、また東北大学神経内科、多発性硬化症治療学の被害の実情もこのホームページなどを通してお伝えしてきました。特に今日に至るまでアクアポリン4抗体測定が休止したままであり、大変ご迷惑をおかけしています。全国からこの件に関してお問い合わせをいただいておりますが、現在高橋利幸先生が中心になって復旧に取り組んでいます。検査再開の見通しが着き次第このホームページでお知らせしたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。これまでに様々な方々から激励のお言葉やご支援のお申し出をいただきました。また東北大学神経内科義援金には、全国の神経内科関係者の方々からご連絡をいただいたり、MSキャビンの中田さんたちが呼びかけてくださったことなどもあり、既に200を超える個人、団体、企業などの皆さんからお申し込みをいただいております。皆さまのご厚情に御礼申し上げます。

 先日、札幌神経内科クリニックの皆さんから激励の言葉を寄せ書きした色紙(写真)と北海道の食べ物がたくさん送られてきました。深澤先生、川島先生、西山看護部長さんや看護師の宿ちゃんや石川さんはじめ皆さんが、私たちを勇気づける一言をそれぞれ書いてくださっていました。実は震災当日、当然の如く私の携帯電話はまったく通じなくなってしまったのですが、その夜自宅にもどりランプ一つで暗い部屋の中にいた時、唯一かかってきた電話は深澤先生からでした。私の携帯の充電切れを気遣ってのごく短い電話でしたが、先生と話すことによって元気が出てきました。

 今日もすでに数回の身体に感じる余震があり、防災ヘリコプターが患者搬送のために大学病院屋上のヘリポートで離発着を繰り返していますが、全国の皆さんのご声援に感謝し、みんなで復興に向けてがんばります。(つづく) (藤原)


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by multiplesclerosis | 2011-04-26 15:58 | お知らせ

震災の仙台から(13):仙台空港からホノルルへ

 4月11日で震災から既に1カ月半が過ぎました。沿岸部の被災地ではまだまだ厳しい生活が続いていますが、仙台市の中心部は全体としては元の日常を取り戻しつつあります。東北大学病院では、最初の数週間は被災地からの患者搬送や応援医師の派遣、避難所の巡回医療など震災に直接関連する医療にかかりきりでしたが、一方通常の診療や入院はこの間ストップせざるを得ませんでした。そのため今は、ずっと待っていただいていた通常の患者さんの入院を少しずつ進めている状態です。私の外来にも、それまで受診することができなかった沿岸部の患者さんたちが受診されるようになりました。無事だった方もたくさんいらっしゃいますが、津波で家族や家、職場などを失った方々、港で大津波に流されそうになりながらかろうじて助かった方、福島第一原発の20km圏内に家があるためほとんど何も持たず宮城県内へ避難した方など生々しい被災体験をいくつもうかがいました。

 院内では震災1カ月後から食堂が再開しました。ただメニューは当初うどん、そば、ラーメンとカレーの4つだけで、その後親子丼などの丼ものが加わりましたが、定食などはまだです。院内のタリーズコーヒーも開店していますが、持ち帰りのみで完全に復旧しているとはいえません。思えば、私自身の生活も3月11日から大きく変わりました。以前にも書いたように、震災当初は大学病院の病棟以外は停電しているので、夕方からは研究棟の医局や私の部屋も真っ暗で何もやることもなく、家に帰ってランプとペットボトルの生活でした。そして暗い中で夕食を食べると余震に備えて昼の服装のまま寝ていました。その後徐々に電気や水道、ガスが使えるようになり街の機能が戻ってきたのですが、自分自身の生活が単調なものになってしまったままであると言わざるを得ません。

f0183250_7214980.jpg そのような中で、先日ハワイで開催された米国神経学会に出席してきました。実は、以前からこの学会で4月14日の「視神経脊髄型多発性硬化症」のセッションで司会をすることになっていたのです。震災当初はとても国際学会への出席を考えられる様な状況ではなかったのですが、こんな時にこそぜひ参加すべきだという周囲の声もあり、行こうという気になりました。4月13日に仙台空港が再開されたのですが、まさにその日に仙台発羽田行きの臨時便に乗りました。この時初めて空港連絡バスに乗って空港につながる仙台東部道路を通り、そこから名取市の海側に広がる津波の被災地を目の当たりにしました。そこは一面すべて茶色で生命の気配がなく、無数の板の切れ端が散乱し、ところどころに自動車が横転したり、前方から地面に突き刺さっていました。東部道路は海岸から数キロメートルは内陸なのですが、道路の横まで津波が押し寄せていたことは明白でした。乗客は皆、無言でこの変わり果てた風景を見つめていました。仙台空港に着くと空港ビルの前からは、以前には建物や松原で見えなかった海が直接見えており、空港ビルが忽然と立っているという感じでした。空港ビル(写真)では到着ロビーの一部のみを使って出発と到着が行われていました。外にあるアクセス鉄道のエスカレーターの壁に付着している泥の汚れから、このあたりも3~4メートルの高さまで津波が押し寄せて来たのだということがわかりました。

f0183250_724155.jpg 午後に仙台空港を飛び立ち羽田へ、そして成田から夜の便でハワイに向けて出発しました。7時間半でホノルルに到着しましたが、そこには仙台とは異なるゆったりした時間が流れているようでした。翌日、会場に行くと海外の知人に会いましたが、皆が震災の話になりました。「視神経脊髄型多発性硬化症」のセッションは、九大の吉良先生とメイヨークリニックのワインシェンカー先生が企画され、メイヨークリニックのウィンガチャック先生と私の二人で司会をしました。会場は満員で、この疾患名の意味するものやNMOとの関連などについて数多くのデータが示されました。

 翌朝、ホノルル滞在わずか48時間で帰りの羽田行きの便にあわただしく乗りました。短い時間でしたが、外の土地の空気に触れたことは良かったと思いました。そして自分を含めて一人一人が以前の生活を取り戻す努力を日々行っていく必要があると強く感じました。たまたま機内で横に座っていたジェイソンとジャックという二人のアメリカ人(写真)と話すと、何と彼らはYouth With A Mission (YWAM)という団体に属しており、東北の被災地でボランティアとして活動するために日本に向かうところだとのことでした。帰国後、ジェイソンからは早速、石巻市で津波に襲われた民家の中から溜まった泥をかき出す作業の様子などを記録した写真が送られてきました。 (つづく) (藤原)


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by multiplesclerosis | 2011-04-25 11:15 | お知らせ

震災の仙台から(12):復興を阻む余震

 3月11日震災以来、毎日からだに感じる余震が何度も起こってきました。そのたびにドキッとしたり胃が痛くなるなど、繰り返す余震が大きな精神的ストレスになっていると話してくれたMS患者さんもいます。しかし4月7日深夜(23時33分)の強い余震(震源は宮城県でマグニチュード7.1、仙台市中心部は震度6弱)では、また新たな人的及び物的被害が出ています。私は自宅にいましたが、携帯電話の緊急地震速報のブザーが鳴り(3月11日14時46分の初回以降12回目)、部屋全体が激しく1分程度揺れました。この余震により東北地方の約400万戸で停電し、死者や負傷者も出ました。仙台市内でもライフラインがすべて止まった地区もあったようです。また新幹線が運転見合わせとなり、一部の高速道路も通行止めになりました。さらに女川原発の3つの外部電源が途絶し残りの1つの回線のみで原子炉などの冷却が維持され、また使用済み核燃料貯蔵プールの冷却が1時間以上できなかったことが報道されました。女川原発と福島原発との間に位置する仙台の市民の一人としては、放射能汚染に対する不安が増しました。

 東北大学病院は、補修したばかりの隣り合う建物の継ぎ目の部分に再び亀裂が生じ、当初エレベーターも止まってしまいましたが、その後復旧しました。余震発生直後の深夜1時そして朝7時に災害対策会議が開かれ、被害状況の確認や対応策が検討されました。病院玄関ホールでの災害時のトリアージ体制が朝までひかれました。結局インフラの復旧が速やかに行われ、大学病院の診療は翌週から通常通りにする方向になりました。なお当院の感染症制御学の先生方の報告によれば、宮城県各地の避難所でインフルエンザや肺炎が少しずつ発生しているものの、特定の感染症の大規模な流行には至っていないようです。

f0183250_22191592.jpg 医学部研究棟の私の部屋では、この余震により停電と断水の状態になり本、書類、イスなどが倒れたり落ちており、机の引き出しやロッカーの扉が開いていました。研究室でも一部の実験機器などが床に落ち、また窓やキャビネット、冷蔵庫のガラス戸が開いていました。これは今回かなり横揺れがひどかったためではないかと思われます。今週から再開していた細胞培養や冷凍庫も停電でピーピーという警報音がいくつも部屋全体に鳴り響いていました。幸い午後には研究棟の電気や水道も復旧しました。しかし私の部屋のある研究棟と隣の研究棟の間の空き地には、3月11日の地震と今回の余震により廃棄することになった本棚、机、パソコンなどが山のように積まれており(写真)、これを見ただけでもいかに多くの医局や研究室内がめちゃくちゃになったがわかります。

 復興に向けて社会全体が動き始めていたところであり、様々な組織や団体(例えば神経疾患の領域では日本神経学会や全国の大学医学部神経内科、国立精神・神経医療研究センター、NPO法人のMSキャビンなど)による多彩な支援活動が実施あるいは企画されています。私たちの研究室でも実験機器の動作性チェックや細胞の培養などが再開されたばかりでしたが、今回の余震により研究を元の軌道に乗せる道のりはまた少し長くなってしまいそうです。(つづく) (藤原)


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by multiplesclerosis | 2011-04-09 22:21 | お知らせ

震災の仙台から(11):いわき、郡山の今

f0183250_21325291.jpg 仙台駅はまだ外壁にシートがかけられており(写真)、近距離の列車が一部走り始めていますが新幹線の運行再開は4月下旬になるようです。仙台空港も同じころに国内線の運航を始めるために現在復旧整備が進行しています。最近高速バスが再開通したため、4月5日火曜日に以前から隔週で診療にいっていた福島県いわき市のいわき共立病院に震災後初めて行ってきました。震災前は、常磐線で「スーパーひたち」という特急列車に乗り2時間で仙台からいわき駅に着いたのですが、地震と津波で宮城、福島両県内の常磐線は広い範囲で線路も駅も流されてなくなってしまいました。さらに原発の近くに線路があるため、放射能の観点からも当分このあたりの区間の常磐線の復旧はめどが立たない状態です。

 仙台を朝7時過ぎに出発し福島県の郡山市でバスを乗り換え、いわき共立病院には12時前に到着しました。高速道路を走行中はガタガタとゆれたり、上下にうねるようなところが時々あり乗り心地は良くない状態でした。途中、自衛隊のトラックや特殊車両などとすれ違い、普段とは異なる雰囲気でした。私が車内から見た限りでは、建物の被害は郡山がひどく、「危険」という赤紙が貼られ黄色いテープで進入禁止になっている建物がところどころにみられましたが、いわき市内では高速バスが通行する道沿いにはそのような光景は見られませんでした。いわき共立病院は海からかなり離れているため津波は来なかったのですが、もちろん市内の沿岸部は津波の被害がありました。例えば神経難病の診療に力を入れている国立病院機構いわき病院も海に近かったため1階が津波でやられたようです。そのため現在、外来診療は院外処方箋の発行のみが行われています。また、いわき市の北部の一部の地域は福島第一原発の20km~30km圏内(屋内退避)に入っています。

 いわき共立病院の玄関ホールで待っている人の数は通常よりも少なかったのですが、先週に比べて増えてきたようです。やはりガソリン不足が解消しつつあるためと思われます。この病院は茨城県北部を含めてかなり広い医療圏の基幹病院であり、ふだんから救急医療をはじめ多数の患者さんが頼りにしている病院です。このたびの震災でも、診療ができなくなった周囲の病院や診療所の患者さんも受け入れており、救命救急センターの症例数がかなり増えたようです。1カ月ぶりとなる神経内科再来では15名の患者さんを診察しましたが、意外だったのは、開口一番「先生大変でしたね。だいじょうぶですか。」と声をかけてくださった方が複数いたことです。テレビに映し出される被災地の映像からは、宮城県のほうがはるかにひどい被害と感じられたのだと思います。この日は薬がなくなったために体調が悪くなった患者さんはいませんでしたが、関東以西に避難している患者さんもいるため、皆さんが内服薬を途切れることなく服用できているかどうかの実状はよくわかりません。

 再来終了後、院長先生から震災発生後のお話しをうかがいました。最初の地震が起こったあとエレベーターが止まったため、入院患者さんを人海戦術で屋外に搬出したり、その後域外の医療施設に移送したりしたようです。また原発の放射能に対する不安は住民だけでなく病院職員の間でも大変強かったため、専門家を招いて放射能のレベルと人体への影響の関係について講演してもらい、理解を深め不安を払しょくすることに努められたとのことでした。一時はかなりな数の住民が他の地域へ自主避難していたようですが、現在は多くの人がもどってきています。

 これまでより時間的には遠くなりますが、いわき共立病院における神経内科の週1回の再来を再開していくことになります。午後4時過ぎに病院を出て、9時前に仙台に帰りつきました。(つづく) (藤原)


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by multiplesclerosis | 2011-04-08 21:34 | お知らせ
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