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震災の体験談

2011年3月11日の東日本大震災からすでに丸2年が過ぎました。復興への道のりはまだ長く険しいものがありますが、この未曾有の震災の経験を風化させてはならないことも事実です。
以下の文章は、全国パーキンソン病友の会宮城県支部の第2回ミニ集会(平成25年2月4日、仙台市福祉プラザにて開催)において、同じ神経難病であるMSの宮城県の患者団体(MS虹の会)の鈴木明美さんがご自身の震災の体験談をお話しになったものです。「全国パーキンソン病友の会宮城県支部だより」に掲載されていたものを、許可を得て転載させていただきました。
鈴木さんは、現在52歳で宮城県石巻市にお住まいです。MSのため両目の高度の視力障害があり、右手足の脱力もあります。

3.11東日本大震災体験談
多発性硬化症虹の会
副会長 鈴木明美

地震発生、そして津波第一波
地震なのか余震なのか、自分でもあまりよく覚えていないのです。二階に寝ていて…下に降りて来たのも全然わからない。はっと気が付いた時にはもう庭に出ていたんです。体は全然動かないし、薬も全部おいてきてしまったので、どうしようもなくて…。
うちは窓を開けてすぐ下が川なんです。ちょっと離れているんじゃなくて窓を開けて、すぐ釣りができるような場所だったんです。たまたま向かい側の娘さんが夜勤で、エンジンをかけていて、車で逃げようと思い荷物の積み方をしていた時、ふと庭を見たら私がうずくまっていたのが見えたので、連れて行ってもらえたんです。連れて行ってもらわなかったら―津波にもっていかれたな―と思います。
常に防災用具はリュックサックに入れて玄関に置いていたんですが、あのようなときには持っていけません。「あそこにある」のはわかるのですが、取りには戻れないし玄関の下駄箱も全部ひっくり返っていたので開かない状態だったんです。防災用具は何カ所かに入れて、いざというときにはどこから出ても持てるような状態にしておかないと、一カ所ではとても無理だということがわかりました。
みなさんもそうですけど、薬がないと体の動きや調子が悪くなりますよね。そんな時に限って、自分でもいつも持っているバッグをすぐに持てばよかったのですが、そういうのも全然気が回らないし、パジャマのまま逃げたので…。
津波が来る来る、と言われても今まで来なかったし、川の近くでもあまり危機感がなかったんです。多分自分の頭の中にも大丈夫だという思いがあったようで、向かいの娘さんに「とりあえず家に行こう」と言われても「大丈夫だから」と断ったようなんですね。でも無理矢理連れて行ってもらって良かったです。車で逃げようと思ったのですが、私の動きが鈍かったので車に着く前に、もう水が来てしまい、結局車も流されてしまいました。
私たちは胸まで水に浸かりながら、向かいの平屋のバイク屋さんに逃げたんです。中二階くらいの所に資材置き場があって、そこに細い橋が架かっていたので、そこに逃げようってことになりました。足が全然動かないし水圧もあったので「多分このまま流されるんだろうな」て漠然と頭の中で思ったのですが、たまたま足を掛けた所が何かの台で、グッッと娘さんに引き上げてもらいました。

第二波、第三波が来て
第一波では水に浸ってしまいましたが、津波は第二波、第三波と大きくなるのを知っていました。でも娘さんはまだ若かったので『引き波が終わった時に逃げよう」と言い出しました。私は「今行ったら私たち多分みんな終わりだから」と言って何とか留まったんです。二波も三波もすぐ足元に水が来るような状態でした。多分、見えている人にはきっと水が上がって来る様子が見えたのでしょうが、私は視覚障害なので水が上がって来ている状態は、バイク屋さんの修理工場の中の鉄骨とか、修理しているバイクとかが建物の鉄筋に当たる音で、グーッと上に上がってきているのがわかりました。真っ暗だし、自分が洗濯機の中にいるような感じがしました。
ああいうときは、とんでもないことを考えるようで、ポケットに携帯電話がたまたま入っていたので、全然繋がらないのに一生懸命「生きてます」みたいなことを打っていたようなんです。娘さんに「そういうことをしても無駄だし、とにかく何か着る物を探して来るから。平屋の家の天袋に使わない服があるから、それを持ってくる」と言われたのですが、このまま一人でおいて行かれたらずっとそこにいなきゃいけないような気がして、とにかくここに一緒にいてくれって言ったんです。
だんだん雪も降ってきて…。低体温で死ぬってことはこういうことなのかな。と思うくらい、ガタガタじゃなくてガクガクしてきました。体全体が誰かに揺さぶられているような感じで、その時濡れているからどうしようもありませんでした。
第三波くらいが引いたらとにかく避難所に行こう。ていうことになりましたが、ほんとに川の目の前なので水が引かないし、よその家の屋根とか瓦とか、もちろん車も三台も四台も重なっているところを逃げないといけませんでした。体が動かないのは、ほんとに大変なことで、ほんの10cmの段差も上がれなくて、結局は這って、体中、泥だらけになってしまいました。
そういうふうにしているうち、たまたまタクシー会社の社長さんが従業員を逃がそうと思い、マイクロバスに乗せたのに、水没して動けなくなってしまったらしいのです。でもだんだん水が引いたら上手い具合にエンジンがかかり、みんなで押したら動いたらしいんですね。その車が私たちの脇をスーツと通って行ったんです。もう終わりだなって思ったのですが、戻ってきてくれて、泥だらけのまま一番近くの避難所に乗せて行ってもらったんです。

避難所での生活の実態
避難所ももちろん停電だったので何も見えない状態でした。視覚障害の自分は、こう行ったら右手がトイレで左手が水道だ。て頭に入れるのですが、人が増える度に、通路が変わってくるので、みなさんに申し訳ないなと思いながら手を貸してもらいました。
トイレは水が流れないし、電気もダメなのでプールから水を汲んで流すのですが「ちゃんと流してください。トイレットペーパーは汚物入れに入れてください」と言われているのに、そういう時ってみんな自分のことしか考えないんですね。プールに水を取りに行かないで用を足したまま流さないので、ドンFンドンドン汚物が重なって…。私はよく見えないので「ここにまたいで」と言われても足を上げると汚物の上に…。一度汚れてしまったら中には入れないし、靴も脱がないといけないし。どっちみち汚れているからそれでもよかったのですが、こういう時って周りの人のことを考えないで自分本位になってしまうんだな。てなんかすごく悲しかったですね。自分が用を足したらバケツ-杯流せばいいのに、それをしないがために全部山になって。私はそれがよく見えなかったので、足の感覚で「みんな汚物そのままだな」とわかるだけだったのですが、見えていた人は耐えられなかったようです。やっぱりそういうときはお互い様なので、こういうふうにしましょうと言われたら、一人一人がそれを守らないといけないですよね。
薬も持っていなかったし、主人も会社で被災して帰って来れなかったので、福祉避難所に行ったほうがいいと思いましたが、そこにいる職員の人に「福祉避難所というのは体が動かない人、寝たきりの人、それからお年寄り、介助が必要な人が行くところで、おたくみたいに元気のいい人が行くところじゃありません」と言われたんです。「私、視覚障害なので行きたいんです」と言っても、目の病気じゃなくて神経なので、見た目にどこも悪くないように見えるし、今度は、動かないのは動きたくないから動かないんだ。と思われて「おばあさん達もこんなに一生懸命やってんのに、あんだは動けるような体なのに、なんで動かないの?」と言われ、本当に悲しくなってしまいました。

自宅に帰ってみて
三日目に主人が迎えに来たとき、そういう状態を主人も見てしまったので「壊れていても何でもいいから家に帰ろう」と言われ、雪の降る中、一時間かけて歩いて家に帰りました。でも家に帰ってみると水は引いていましたが、階段の上に魚がいたり、お風呂場の浴槽には泥が入っていて、その中にも魚が何匹か浮いていました。家の中にはよその知らない人の物がいっぱい入っていて、自分の家にあるべき物がなかったり…。どうしようと思いましたが、なんとか二週間くらいかけて二人で片付けました。全然情報がなくてわからなかったのですが「ボランティアさんが泥かきとか、がれき片付けとかしてくれたのに」という話を、自分たちが片付け終わってから聞きました。
目の前ががれき置き場だったので、がれきに家が潰されるんじゃないかと思うほど、ドンドンドンドン溜まっていきました。自分の家もそうですが、がれきといっても一つ一つ思い出がある物なのに、みなさんそこに、ただ捨てて行くのを眺めていました。お茶碗一つにしても私たちが一生懸命働いて買った物じゃないですか。それを泥だらけになったからといって、捨てるのはしのびないよね。と思いながら、人の家のがれきや、自分の家のがれきを、仮設住宅に入る10月まで見ていました。

患者会の大切さ
その間にも佐々木さんはじめ、みなさんにお世話になりました。患者会に入っていてすごくよかったと思いました。隣近所の人たちもみんな被災しているので、本当に自分たちのことだけで精一杯でしたし、年齢がいっている人は娘さんや息子さんの所に行ったりして、気が付いたらそこには二軒しかいない状態だったのです。改めて患者会の繋がりはすごく大きかったな、繋がっていてよかったなと思いました。そういう時は身に染みてわかりました。普段は患者会のことを、自分も大変だけど、みんなも病気だから。て感じで義務みたいに、患者会に入っているから行かないといけない、みんなと交流しないといけないと思っていたんです。でも、そうじゃなくて小っちゃな繋がりがすごく私には大きく広まって現在に至っているのです。すごく大事なことなんだなと改めて思いました。

仮設住宅で思うこと
まだ仮設住宅にいます。次の住家になる場所がなかなか決まらなくて四苦八苦しています。だいたい何年後かと目途がつけば頑張れますがまだまだ全然ないのです。昼間はいいのですが、夜主人が帰ってくるのがだいたい8時半位なので、暗くなって一人の時間が長くなると押し潰されそうになるのです。自分は病気で何もできない。主人は仕事でいっぱい遺体を運んだり、流れてくる人を助けたりして辛い思いをしているのに、それを言ったら病気の私が大変な思いをするだろうとそれを留めておいているんです。それを考えると何もできない私がこうしていていいのかなと思うし、ご近所のお世話になった人たちが亡くなったので、その人たちの代わりに私が逝けばよかったんじゃないか。て考えてしまうのです。それは月日が経つごとに大きくなり、今は、本当に先が見えなくなってしまいました。自分がここにいていいのだろうか?でもいいんだよね。て毎日その繰り返しです。調子のいい時は頑張れるから、うちの人の力にもなれるって思うのですが、調子が悪くて動けなくなったりすると、迷惑かけているんじゃないか?て思ったりします。物がなくなったり、家がなくなったりするのも辛いのですが、何で自分は動けないのにこうして生きているんだろう?てそっちのほうが大きくなって、それがなかなか自分の中で整理がつきません。
でもほかの健常者の方に聞いても「若い人が逝ってしまって年齢がいった自分たちがこうしていていいのか?て思うよ。だから病気の明美ちゃんだけじゃなく、私たちも思うことなんだよ」て。
でもそれを被災していない人はわかりませんよね。「復興住宅にも入れてもらって、代替地だって考えてもらって、ボランティアさんにはいろいろな物をもらっていいよね」て言う人がいるけど、違うんだよね。今はもう気持ちが…心が折れそうだよね。

これから
震災直後は「みんな被災してんだから頑張ろう!」ていう気持ちのほうが強かったのに、今は、だんだん家が建って出て行ったり、仕事の目途がついて新しいところに移ったりする人が結構いるので、引っ越しを見る度に自分たちは取り残されているような…。被災して、ここにいる人たちと周りから見る目が全然違うんだよね。テレビなんかでは「復興してきてますね。仕事もだんだんできるようになりましたね」ていうのを聞くと「私たちの気持ちはわかんないな、この人は」と思います。「でも頑張んなくちゃね、でもこれ以上何を頑張ったらいいのかね」と言いながらおばあちゃんたちは毎日ひなたぼっこをしています。そういう表には見えないことを、みんなにもわかってもらいたいな、と思い毎日生活しているので、今日は自分の思いがちょっとでも伝わればいいなと思いました。
ありがとうございました。


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by multiplesclerosis | 2013-03-25 14:39 | お知らせ
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